アブサンの伝説は、盛られていた。

アブサンの伝説は、盛られていた。

文:オリバ(deeep 研究係)


この秋、ロシアのDEUSが限定フレーバーを出した。
名前は「ANTONY CROW」。
モチーフは、アブサンだ。

アブサン。
緑色の、いわくつきのお酒。
19世紀のフランスで大流行し、「緑の妖精」と呼ばれ、
やがて「人を狂わせる」として、あちこちの国で禁止された。

犯人とされたのは、ニガヨモギに含まれるツジョンという分子。

ところが。
禁止前の本物の瓶を開けて、中身を測った人たちがいた。
すると、話がだいぶ変わった。

伝説は、盛られていた。

(先に書いておく。これはお酒をすすめる話ではない。追いかけるのは、匂いだけ。)

古いガラス瓶に入った緑色の液体と、そばに置かれたニガヨモギの枝

260と、25.4

アブサンの禁止は、20世紀のはじめに続いた。
スイスは1908年の国民投票で禁止を決め、アメリカは1912年、本場のフランスは1915年。
スイスで解禁されたのは、ほぼ100年後の2005年だ。

そのあいだに、ひとつの数字がひとり歩きした。
1999年、英国医師会誌BMJに載った記事(Strangら)が、禁止前のアブサンのツジョンを1Lあたり260mgとした。
ただしこれは、瓶を測った値ではない。古いレシピから計算した推定だった。

2008年、ドイツ・カールスルーエの公的な検査機関にいるLachenmeierらが、確かめに行く。
集めたのは、1915年より前に作られた本物のアブサン、13本。
それを、いまの分析機器で測った。
(共著者には、アブサンの製造や販売にかかわるイギリスとアメリカの会社の人も入っている。これも書いておく。)

結果。

  • ツジョンは、1Lあたり 0.5〜48.3mg
  • 平均 25.4mg、中央値 33.3mg

260mgの、およそ10分の1。
平均は、いまのEUのアブサンの上限(1Lあたり35mg)より低かった。
禁止後や現代のアブサンを測っても、範囲はほとんど同じだったという。

昔の推定は1Lあたり260mg。禁止前の瓶13本を実際に測ると、平均は25.4mgだった。
昔の推定は1Lあたり260mg。禁止前の瓶13本を実際に測ると、平均は25.4mgだった。

著者らは、メタノール、銅、アンチモンといった、ほかの“容疑者”も調べている。
どれも目立った量は出なかった。
結論は、「アブサン中毒」を説明できそうなものは、アルコールのほかに見つからなかった、というもの。

緑の妖精の正体は、たぶん、とても強いお酒だった。

白く濁るのは、魔法じゃない

アブサンには、もうひとつ伝説めいた場面がある。
水を注ぐと、透き通った緑が、ミルクのように白く濁る。
フランス語で「ルーシュ」と呼ばれる。

主役は、アニスやフェンネルの香りの分子、アネトール。
アネトールは、アルコールにはよく溶けるのに、水にはほとんど溶けない。

強いお酒の中では、きちんと溶けている。
そこに水が入ると、居場所がなくなる。
あふれた分が、細かい油の粒になって浮かぶ。
その粒が光を散らすから、白く見える。

2003年、米国のVitaleとKatzは、この現象をギリシャのアニス酒にちなんで「ウーゾ効果」と名づけ、くわしく調べた。
石けんのような助けがなくても、細かい粒が長いあいだ浮かんでいられる、めずらしい状態だとされる。

アネトールはアルコールには溶けるが、水が増えると溶けきれず、細かい粒になって光を散らす。
アネトールはアルコールには溶けるが、水が増えると溶けきれず、細かい粒になって光を散らす。

あの白は、甘い草の香りが、水の中で迷子になった姿だ。

はがしたら、甘い草が残った

では、伝説をはがしたアブサンには、何が残るのか。

昔のアブサンの材料は、ニガヨモギ、グリーンアニス、フェンネル。
そこにヒソップやレモンバームなどが加わる。
ヨーロッパ各地のアニスの実14サンプルを調べた研究(Oravら、2008年)では、精油の76.9〜93.7%がアネトールだった。
アブサンの香りの背骨は、苦い草ではなく、甘い草のほうにある。

おもしろい記録もある。
Lachenmeierらの13本のなかには、ツジョンがとても少ないのに、名品として知られる銘柄があった。
それでも香りの特徴は、ツジョンの多い銘柄と同じだったという。
“幻覚の分子”は、アブサンらしさの決め手ではなかった。

DEUSの説明によれば、ANTONY CROWは、ニガヨモギの草っぽい苦み、控えめなアニス、そしてかすかなタラゴン。

このタラゴンが、私には気になった。
タラゴンの精油の主成分はエストラゴールで、多いものでは82%に達する(Obolskiyら、2011年)。
名前からして、タラゴンのフランス語「エストラゴン」から来ている。

エストラゴールは、前に書いたタイバジルの主役。
アネトールは、ダブルアップルの主役。
そしてこの2つは、二重結合ひとつ違いのいとこだった。

さらに言うと、ニガヨモギもタラゴンも、植物の分類ではヨモギ属(Artemisia)。
日本のヨモギ餅のヨモギも、同じ属の仲間だ。

アブサン味は、ヨモギ属の草と、アネトール・エストラゴールという“いとこの分子”でできている。
アブサン味は、ヨモギ属の草と、アネトール・エストラゴールという“いとこの分子”でできている。

なお、シーシャの葉にツジョンが入っているかどうかは、メーカーが公表していないので分からない。
ただ、さっきの13本が教えてくれたのは、それがなくてもアブサンの匂いは成り立つ、ということだ。

家で試せる、3つのこと

1. 八角とフェンネルシードを並べて嗅ぐ。
どちらもアネトールの香り。
そこに乾燥タラゴンがあれば、3つ目に置く。少し青くて、少し甘い。
アブサン味の骨組みが、鼻の上で組み上がる。

2. ヨモギ餅で、ヨモギ属を予習する。
ニガヨモギそのものは手に入りにくい。
でも、同じ属の草っぽさなら、和菓子屋で会える。
アブサン味を吸ったとき、「あ、草の側の匂いだ」と分かるようになる。

3. アニス系を、続けて吸い比べる。
ダブルアップル、タイバジル系、アブサン系。
アネトールが主役のもの、エストラゴールが主役のもの、その両方に苦い草を足したもの。
いとこ同士を並べると、それぞれの違いがくっきりする。

白い石の上に並んだ八角、フェンネルシード、タラゴンの葉

緑の妖精を狂わせていたのは、分子ではなく、噂のほうだった。

盛られた数字を下ろしたら、
甘い草の匂いだけが、ちゃんと残っていた。

参考

  • Lachenmeier, D. W. et al. (2008) *Chemical Composition of Vintage Preban Absinthe with Special Reference to Thujone, Fenchone, Pinocamphone, Methanol, Copper, and Antimony Concentrations*, Journal of Agricultural and Food Chemistry 56(9):3073–3081(共著者にアブサン製造会社の関係者を含む)— doi:10.1021/jf703568f
  • Strang, J., Arnold, W. N. & Peters, T. (1999) *Absinthe: what's your poison?*, BMJ 319:1590–1592(260mg/Lという推定。上記論文で引用)
  • Vitale, S. A. & Katz, J. L. (2003) *Liquid Droplet Dispersions Formed by Homogeneous Liquid−Liquid Nucleation: "The Ouzo Effect"*, Langmuir 19(10):4105–4110 — doi:10.1021/la026842o
  • Orav, A., Raal, A. & Arak, E. (2008) *Essential oil composition of Pimpinella anisum L. fruits from various European countries*, Natural Product Research — PubMed 18266152
  • Obolskiy, D. et al. (2011) *Artemisia dracunculus L. (Tarragon): A Critical Review of Its Traditional Use, Chemical Composition, Pharmacology, and Safety*, Journal of Agricultural and Food Chemistry 59:11367–11384 — doi:10.1021/jf202277w
  • swissinfo.ch, *Green fairy comes out of hiding*(スイスの禁止と2005年の解禁)— swissinfo.ch
  • Cloud Shisha Media, DEUS「ANTONY CROW」発表(2026年10月15日)— media.cloud-shisha.com
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